沖縄バプテスト連盟の歴史

沖縄のバプテスト

 沖縄におけるバプテストの働きについてはスコットランドのアラン夫人を忘れてはなりません。アラン夫人はベッテルハイムの琉球伝道のために非常に深い関心を持ち、熱心な祈りと献金をささげておりました。ベッテルハイムは、ハンガリー生まれのユダヤ系プロテスタント宣教師で、1846年英国海軍琉球伝道会宣教師として家族同伴で琉球にやってきて、波の上護国寺を本拠に、約8年もの間、福音伝道に努めました。その間、聖書を琉球語に翻訳し、種痘法などの医療技術を伝えたと言われています。しかし、琉球王府の厳しい妨害で伝道はなかなか進展せず、1854年ペリーが来航した際、ベッテルハイムが琉米の仲介役となり、艦隊と共に琉球を後にしました。その後、ペリーは江戸に入り日米和親条約を締結し、日本は開国することになりました。

 アラン夫人は、ベッテルハイムが琉球を引揚げて後も琉球伝道のために祈り続けたのでした。37年の時を経て、神戸においてアラン夫人とバプテスト宣教師タムソン師が出会い、夫人の熱心な沖縄伝道に寄せる厚意に日本の宣教師会は心を動かされ、遂に沖縄伝道に着手することを決議し、早速、タムソン師もアメリカンボードに許可を得て、いよいよ沖縄伝道の道が開かれるようになりました(『宣教の歩み』沖縄バプテスト八十年史15頁参照)。そして、1891年(明治24年)12月、遂に相模の人、原三千之助師が岡本勇と共に那覇港に上陸、間もなくして上之蔵町に「沖縄講義所」が開設されました。これが沖縄におけるバプテスト伝道のはじまりであります。

 その翌年2月、沖縄伝道の世話人であるタムソン宣教師夫妻が神戸から来島され、沖縄で最初のバプテスマ式が行われましたが、沖縄伝道の恩人アラン夫人はその日にスコットランドで召天されたのでした。しかし、沖縄伝道の援助はアラン夫人の令息ロバート・S・アラン氏が続けられました。

 その後、原三千之助師に代って第2代目の牧師として内田尚長師が来島されていますが、内田師の伝道記録は残されていません。1901年(明治34年)には原口精一師が第3代目牧師として来島、伝道の方策として幼児教育にも力を注ぎ、1908年には善隣幼稚園が設立されました。また原口師の琉球方言による路傍伝道も珍しいことではなく、小禄、豊見城、真和志、そして首里、糸満にも伝道の手は広げられ、アメリカンボードも沖縄伝道に力を入れるようになりました。

 首里の識名殿内を借りてキリスト教の集会が開かれたのは1907年(明治40年)であります。徳之島出身の大保富哉牧師は達弁ではなかったが熱涙を流しての説教は当時の若者たちを感動させ、比嘉賀秀、比屋根安定、照屋寛範らが献身しました。

 原口師によって糸満に本格的な伝道が展開されたのは1910年(明治43年)で、浦添朝長、翁長武達らが活躍、更に照屋寛範、親泊仲規らも力を注がれました。

 那覇市久米町に洋風2階建の見事な新会堂が完成したのは1916年(大正5年)であります。その翌年原口師は大きな功績を残して沖縄を去られ、無牧になった教会を嘉手納良弼、浦崎永錫らが守り、1921年(大正10年)に神山本淳師が那覇教会牧師として就任しました。南洋伝道中の照屋寛範師が那覇に帰られたのは1927年(昭和2年)であります。

 神山本淳師による伝道は、垣花(1921年)、久米島(1924年)、そして嘉手納(1925年)にも開始され、親泊仲規、今井革、大谷重夫らが活躍しました。

 1933年(昭和8年)には首里教会牧師として米国留学中の阿嘉良薫師が迎えられ、同年嶺井満吉師が糸満教会牧師として就任し、阿嘉師は数年後県外へ転出されましたが、嶺井師は約8か年間働かれました。首里教会が崎山町に移転したのは1938年(昭和13年)でありますが、その名も「首里城東教会」と改められ、照屋寛範師が兼牧されました。当時の会員で城間理王、道子夫妻の働きは目ざましいものでした。照屋師は1935年に伊波盛次郎師の協力を得て真玉橋、西原にも伝道が開かれました。

 1945年(昭和20年)第二次世界大戦が終結し、その翌年12月に照屋寛範師、伊波盛次郎師が疎開先の九州から帰沖、前原と金武に各々伝道を開始。翌1947年(昭和22年)1月、プロテスタント各教派合同の「沖縄基督教連盟」が石川で組織され発足しました。理事長には琉球政府文化部長の当山正堅氏、伝道部長には照屋寛範師が就任し、各牧師は文化部員のかたちで政府公務員として取り扱われました。こうして北米外国伝道協会の働きと在沖米軍人クリスチャンの協力により伝道が推進され、各地に教会が建て上げられていきました。ところが1953年(昭和28年)8月に沖縄基督教連盟を財団法人として法人組織化することになり、バプテスト派はその信仰的立場から離脱しました。照屋、伊波両師はたちまち経済的苦境に追いこまれ、困難な生活のなかで宣教活動が続けられました。そのようなとき関東学院(坂田祐院長)から沖縄伝道のために年3万円(米国軍票B円・120円=ドル)の献金が送られ3年間も続けられました。これは関東学院に在学している幼稚園生から大学生に至るまでの全学生の十円献金による友情の協力援助でありました。

 その年にボーリンジャー宣教師が来島し、巧みな日本語によって伝道し、豊かに用いられました。1955年(昭和30年)1月にはバプテスト派の米軍チャプレン、クラーク及びブリテン両師やパーク大尉の指導と協力のもとに「沖縄バプテスト連盟」が結成されるに至ったのです。当時来島中の嘉手納良弼牧師(奈良バプテスト教会)の御配慮と通訳の労をとられたことは特筆すべきであります。

 連盟発足と共に照屋師個人で発行していた月刊誌「暁鐘」(けいじょう)は「沖縄バプテスト」に改題して連盟月刊誌となり、更に琉球放送の電波による「バプテスト・アワー」が開始されました。

 1955年12月25日、日本バプテスト連盟第9回年次総会決議に基づき国外宣教師として派遣された調正路師一家が来沖されました。以後、首里を根拠に活発な伝道が展開されました。調師の日本バプテスト連盟国外宣教師としての働きは1968年度をもって終了しましたが、調師ご夫妻はその後も沖縄に留まり伝道の働きを継続され、その働きは1991年10月八重山教会を辞任されるまで続きました。

 1963年(昭和38年)3月、日本バプテスト連盟では大規模な「新生運動」が実施され、沖縄でもそれに歩調を合わせ、連盟をあげて新生運動が展開されました。そのため南部バプテスト・ボードより物的、人的援助があり総勢30人程の牧師が来沖、3月31日から2週間にわたって各教会・伝道所での特別伝道集会が行われました。

 1970年(昭和45年)6月28日には8日間にわたり、那覇(琉球新報ホール)、コザ(琉米親善ホール)の大集会場をはじめ各個教会を会場として「沖縄バプテストクルセード」が実施されました。特に個人伝道に力が注がれ、音楽伝道やテレビ伝道(茶の間の科学)も行われました。特にその年の7月に東京武道館で開催される第12回世界バプテスト大会に海外各地より参加される30余名の説教者や信徒を迎えての大がかりな伝道が展開されました。

 1970年2月に行われた第16回年次総会において、「日本復帰に伴う沖縄バプテスト連盟の姿勢に関する態度表明の件」が話し合われ、1972年に日本復帰後も復帰前と同じように沖縄バプテスト連盟として、アメリカの北部バプテスト、南部バプテスト、日本バプテスト同盟、日本バプテスト連盟との協力体制を維持しつつ歩むことを承認しました。翌年1971年第17回総会において「靖国神社国家護持に反対する声明」が採択されました。

 1975年5月4日、セントラル・バプテスト教会において宣教85年・連盟創立20周年記念式典が挙行され、日本キリスト教協議会議長、相川高秋師が「新時代における教会の使命」と題して講演をしてくださいました。また、これを記念し「宣教の歩み」(沖縄バプテスト八十年史)を出版しました。さらに、1978年11月には、第2回「沖縄バプテストクルセード」が開催され、381名もの決心者が起こされました。

 1982年第29回連盟年次総会において、核兵器全面禁止とその廃絶を願い「反核声明書」が採択されました。同年3月23日、沖縄バプテスト連盟は沖縄県から宗教法人として認証されました。

 翌1983年、「OBC宣教百周年九ヵ年計画」がスタートし、牧師朝祷会も開始され、宣教の勢いも徐々に増していきました。

 1991年、沖縄バプテスト宣教百周年の年、8月には連盟からハワイへ伝道団(15名)が派遣され、11月には、九州各地にも問安伝道隊6チームが派遣されました。11月23日、沖縄バプテスト宣教100周年記念式典・晩餐会がパシフィック・ホテル沖縄にて開催され、翌24日には内外の講師による全教会での100周年記念礼拝がもたれました。記念式典には日本バプテスト同盟理事長・岩村繁師、日本バプテスト連盟・金子純雄師、世界バプテスト連盟代表デイトン・ロッツ師など各代表者が出席されました。この交わりを契機として、日本バプテスト同盟、日本バプテスト連盟、沖縄バプテスト連盟の三者協議会が毎年開催されるようになりました。

 1994年6月、連盟キャンプ場「北山荘」のチャペル献堂式典が行われました。

 1995年、年次総会において、第二次世界大戦に対する深い悔い改めと平和実現への強い決意をもって、「戦後五十年を迎えるにあたっての戦争の反省と平和実現に関する声明」が採択されました。

 また、1998年11月日本バプテスト連盟では、第47回定期総会において1955年に調正路師を「国外宣教師」として沖縄に派遣した問題への総括がなされ、『沖縄を国外と位置づけた私たちの歴史理解の欠如が沖縄の人々に大きな悲しみを与えた』として謝罪し、『わたしたちは、イエス・キリストの宣教命令に従い、沖縄バプテスト連盟と協力しつつ、福音宣教を行う』決議がなされました。

 2000年11月、21世紀における連盟諸教会の飛躍を目指してニュー三和を会場として2日間(23日、24日)、「信徒大会」が行われ600名の方々が集いました。その大会において、「2000年沖縄バプテスト連盟信徒大会」宣言文が採択され、翌年6月にはその「記録集」が発行され歴史の一ページに刻まれました。

 2001年10月臨時理事会が招集され、9・11に対する連盟の意思が確認され、「米国同時多発テロ事件に対する平和実現を求める声明」が採択されました。世界を揺るがしたテロに対して、武力や暴力による解決を拒否し、ただキリストの贖いによる平和こそ神の御心であることを宣言しました。

 2002年度年次総会において、「21世紀宣教9ヵ年(2003年~2011年)計画」(略称V9)が採択され、「キリストの福音を沖縄から世界へ」と主題を掲げ歩み始めました。その初年度、2003年6月22日、セントラル教会にて開催されたバプテスト・デーにおいて、250名の会衆が集う中、東風平巌宣教師のネパール宣教師派遣式が行なわれました。その翌月7月1日、東風平巌宣教師とご家族は、連盟が派遣する宣教師家族第1号としてネパールへと旅立ちました。

 「アジアバプテスト女性大会(ABWU大会)を沖縄の地で」と祈り続けて三年余、ついに2004年、日本バプテスト婦人連合・日本バプテスト同盟全国女性会・沖縄バプテスト連盟女性会がひとつとなり、「第10回アジアバプテスト女性大会」を開催することができました。宜野湾市にある沖縄コンベンションセンター劇場棟において、2004年2月24日~27日の日程で、「シャローム!平和のかけ橋になろう」というテーマのもと、18の国々から1300名の参加者があり、祝福された大会となりました。

 2005年11月28日に、沖縄バプテスト連盟結成50周年記念式典がラグナガーデンホテルにて行われ、日本バプテスト同盟から澤野芳久理事長、日本バプテスト連盟から平良仁志理事長が出席されました。記念事業の一環として『写真で見る沖縄バプテスト連盟50年』(1955年~2005年)が刊行され、成長させてくださる主の御名を賛美しました。その年の12月2日~4日に「V9」第一期の締め括りとして、「バプテストフェスタ2005」(宣教大会)を開催しました。講師として渡辺暢雄師をお迎えし、かでな文化センターを会場に3日間で延べ1600名の方が集いました。

 2006年11月25日、沖縄バプテスト連盟女性会結成50周年(1956年~2006年)記念大会(テーマ)「キリスト・イエスの恵みによって」が那覇教会において開催されました。ABWU会長・村上千代師の励ましの言葉があり、「50周年記念大会宣言」が採択されました。また、約1年後に沖縄バプテスト連盟女性会結成50周年記念誌「神の恵みの50年」が刊行されました。

 2007年9月24日、第54回年次総会において「歴史教科書検定『沖縄戦歴史歪曲』に対する抗議声明」が採択されました。文部科学省が「集団自決」に旧日本軍は関与を否定し、書き換えるよう高校歴史教科書に対して検定意見をつけたことに対する抗議声明でした。「沖縄戦における『集団自決』が日本軍の関与なしには起こりえないことは紛れもない事実」、「沖縄戦の実相を正しく伝えることが大切」と抗議しました。

 2010年10月24日に、堀越暢治師を講師としてお迎えし、「V9」信徒セミナー「V9『宣教120周年倍化運動』達成に向けて」が開催されました。

 2011年に東日本大震災という未曽有の災害を機に、災害支援委員会を発足し、連盟より9回にわたってボランティアを派遣しました。

 2014年7月、「バプテストビル」(浦添市港川)の売却に伴い、連盟事務所業務を那覇教会ベツレヘムホールの一画に移転しました。

 2015年6月17~19日の日程で沖縄かりゆしアーバンリゾート・ナハにて「三バプテスト合同教師研修会」が行われました。「『戦後七〇年』キリストの平和を作り出す~今、沖縄から共に~」をテーマに掲げ、日本バプテスト連盟、日本バプテスト同盟、沖縄バプテスト連盟の三団体から255名が参加し、有意義な学びが導かれました。

 2016年は連盟の活動を今一度考える時とする「安息年」(中高生キャンプ以外の活動休止)が実行されました。

 2018年9月に「バプテストビル」(西原町幸地)の献堂式が行われました。また、その年の7月には北山荘食堂棟の献堂式を行いました。

 この南の島々で福音宣教の一端を委ねられている諸教会はそれぞれの時代にあって、聖書に基づき、地の塩、世の光として歩んできました。父なる神はキリストが頭である教会の途上の歩みを導き完成へと至らせてくださるでしょう。そして、そのご委託に応えられるよう聖霊も諸教会を助けてくれるに違いありません。